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学校なんてものはもう滅びていいんだ


 以前、山梨日々新聞に連載されている藤井東さんと芹沢俊介さんのファックス往復書簡についての感想を、同新聞に書かせていただいたことがありました。そのとき、書きかけて自分で廃棄した文章が、ノートパソコンのハードディスクに残っていたのを、昨日、読み直し、自分のホームページになら載せられるかと思い、ここに移すことにしました。
 ノートパソコンにあったものに、加筆したことをお断りします。
 山梨日々新聞に掲載されたものは、別のページにあります。

 芹沢さんと藤井さんのファックス書簡を読みながら、急に不安になっています。
 学校という言葉を見ると、それだけで胸くそが悪くなります。忘れかけていた呪いがふたたびよみがえってきます。四十台半ばを過ぎた男が今でも忘れていない呪いがあって、登校拒否などについて書き始めると、ただただ学校に対する罵倒の言葉しか自分の中から出てこないのではないか。冷静にものを言うことができないのではないか。そう思っての不安でした。
 私は、学校という字を見ると、「かんごく」というルビを振りそうになる感覚の持ち主です。
 私は高校3年の初めに高校へ行かなくなりました。それまで、教室では私一人が無法者でした。生徒たちは、羊のようにおとなしかった。「羊の皮をかむった狼」も恐いが、同級生たちは「羊の皮をかむったやぎ」で、これもなかなか恐いものです。やぎたちは、ナイシンショにイイコトを書いてもらえるというオイシイエサを待って、おとなしくしているんだと、やぎに混ざっている野良犬の私にはわかったからです。
 やぎたちが何かおし黙って、おとなしい羊を演じている。それを演じる演劇空間がこいつらにとっての学校なんだ。羊ごっこのやぎ学校か。下手くそな芝居しやがって、そう思っていました。屋代高校という芝居小屋でした。
 そのうち、教師にいちいち逆らっているのも面倒になり、教室という芝居小屋に座っているのもあほくさくなって、一カ月近く学校を休んで、千曲川の河原をぶらついていました。世の中からひとりだけ切り離されたように思い、川をながめ、土手をながめ、風にのってかすかに聞こえてくる学校のチャイムを聞いていたときの感覚は今でも体に残っています。
 また高校へ行き始めたのは、学校へ行かないでいた一カ月ほどの間に大学へ行こうと決めたからでした。学校がつくづく嫌になったにしても、学年が高校三年でしたから、あとほんの少し我慢してしまえば、この監獄からおさらばできると打算しました。再び学校に行きはじめてやっていたことは、教室で教師の言葉尻をとらえて教室の中を笑いで沸かすことだけでした。
 結婚して娘ができて、娘が学校に行くようになりました。
 娘が小学六年のとき、髪が長すぎるとかで、教師に切れと命じられたことがありました。子供がどうしてかと聞くと、教師は、「僕は短い髪の子が好きだからだ」と言ったということでした。私がその教師に、「あんたの好き嫌いがどうして問題なんだ。その好き嫌いにどうして従わなければならないんだ」と言ったことがありました。以後、教師は私の娘だけには髪を切らなくてもいいと言い、他の生徒には短い髪を強要し、その結果、私の娘を教室で孤立させることをやりました。
 私の娘は中学一年のとき、学校をよく休むようになりました。学校へ行く時間になると腹が痛くなるのです。妻は、腹が痛いのが止まらないようなら帰っておいでと言って娘を送り出していたようです。そのうちに、娘はツッパリというのをやるようになって、学校を完全に遊び場にしてしまいました。遊び場だと決めてしまえば、学校は楽しくてしょうがないようなことを娘が言っていたことがあります。つっぱり仲間と学校の中を遊園地のように嬉々として走りまわり、ふざけまわって活用したらしい。
 その頃、遠くに学校が見える道路を車で運転していて、だんだん学校が近づいてくると、学校のフェンスをはさんで、先生と生徒がののしりあっているのが見えました。フェンスの内側にいる先生と、フェンスの外の道路にいる生徒が双方でつかみかからんばかりのえらい勢いなのです。すげえなあと思いながらそばまで運転していくと、うちの娘と担任でした。
 夜、娘に「昼間、何やってたんだ」と聞くと、「べつにい」と言いました。話はそれだけでした。教師をどやしつけるなんぞは、彼女の日常だったらしい節があります。
 高校には合格の難しいところと、易しいところがあります。私の娘は、勉強はほったらかしていたので、長野県で2番目に易しい学校に合格しました。家から歩いて10分もかからないところですが、娘はいったん学校へ行ってから、友達と外出し、駅前通りをぶらぶら歩くということをやりだしました。何をするのでもなく、ただぶらぶら歩くのです。
 あのなあ、お前の友達は、2つも3つも離れた駅から通学しているけど、屋代の駅前通りは家の近所じゃないか、と私は娘に苦情を言いました。実際、近所のおばあさんなんか、今日、娘さんが駅前通りをぷらぷら歩いていたよ、なんて私に教えてくれたりしました。まったく。
 体育の授業を大量にさぼり、娘は進級できないことになり、1年の終わりにその高校を退学しました。長野市の通信制の高校に日曜日だけ通うことになり、また高校一年からやり始めました。長野西高校の通信制というところでしたが、ここの先生たちには非常にお世話になりました。今も感謝しています。
 通信制の学校は日曜日だけ行けばいいので、娘は私の自宅自作の現場を手伝ったりもしました。娘のおかげでずいぶんと現場がはかどりました。通信制の他には、娘は私がやっている素読舎という塾を使って、英語の勉強を続けていました。
 屋代南高校入学。1年生の終わりに退学。通信制高校入学。通信制を4年かけて卒業。1年浪人。早稲田大学合格。1999年現在、早稲田大学在学中。短く書けばそれだけです。小学校・中学校・高校普通科。この世界が押しつける幻想を食い破るのに、彼女が使ったエネルギーは決して小さいものではありませんでした。

 滅びろ。
 もう、学校なんてものは滅びていいんだ。
 学校について書こうとして、不安になり、その不安の中から出てくる言葉はこんなものでしかありません。



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