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テープじゃいやだ
新井英一の歌の魅力はライブだ。
そう断定してしまうのに迷いがないわけじゃない。何人もの人が、新井英一の魅力をテープを通じて知ったと言うのを聞いたことがあるからだ。一度聞いただけで、これはすごいと思ったと言う人が何人もいる。そうなのか、俺の感度が変なのか、俺の持ってるテープレコーダーが数千円の安売りのやつだからいけないのかと思いもしたが、テープから流れてくる新井英一の歌に私が感応しなかったのは確かなので、その点を偽ることはしない。
今となっては、ジクジたる思いがあるが、去年の長谷寺のライブに行くときも、大きい期待をもって行ったのではなかった。その前に聞いたテープに感応しなかったので、ひまつぶしに行ってみるかということだったのだ。あれよあれよという間に、私がテープから得ていた印象はひっくりかえっていくのだった。どこから突き上げてくるものかわからないが、私の中に何度も何度も突き上げてくる情念があって、私というものがそこでまるでひっくりかえってしまうのだった。ああ、なんということだ、なんということだと思い、いつか私は声をあげて叫んでいた。全身がゆさぶられて、私は幸福の中にいた。
歌だった。歌が全身をあらわにした。
鋼鉄のように鍛えられた声。そんなことではない。そんなことではなかった。複製メディアの中に住みつかなかった歌の原質がそこにむきだしにひかり出し、私はさっさと、どんでんがえしになった。私という獄を破って、遠く、近く、号泣するものがあった。
見上げた空に流れていた雲。
その動くともみえないものこそが幸福というものだったろう。
そこにあった夜空。風。
長谷寺の長い石の階段を下るとき、ところどころに若い人が明かりを持って立っていた。ありがとうございましたという声に、私も妻も同じくありがとうございましたという声で応じるだけだったが、挨拶というものが気持ちとまるでずれがないのは気持ちのいいことだった。めったにあることではない。
この若い人たちが、新井英一を見つけ出し、手作りでライブを作ったのだと思い、石の階段を踏みながら信頼した。
今でも、新井英一をテープでは聞かない。
思い出して、飢えている。
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